Case8.二次学力

Case8.二次学力

 

 まず一般論として、医学部合格には二次学力が欠かせない。理由は簡単で、一次(共通テスト)よりも二次(個別学力検査)の方が配点が高い場合が多く、また、二次学力の高い受験生は一次学力も比例して高い場合が多いからである。一方で、その逆のケース、すなわち、一次で高得点が取れるから二次でも高得点が取れる、というのは成り立たないケースが多い。それはなぜだろうか。以下にその理由を示していく。

 

 一次試験はマーク試験であり、どの教科でも何かしらの誘導があるのが一般的である。様々な学力をもつ全国約50万人の受験生が同時に試験を受け、限られた時間内で解ききれる分量と難易度で作成し、その平均点が約60点になるように計算して作られた試験である。全国の受験生が同一の問題を一斉に解くわけだから、極端に意地悪な問題や難しすぎる問題、分量が極端に多すぎる問題は出題することができない。一次試験で求められる学力は、「解法の誘導に乗る力」や「素早い計算力」、「よく見る典型問題を取りこぼさない力」である。※これは一次試験が易しい試験であるというわけではないことに注意してほしい。

 

 一方で、二次試験は各大学が各々の大学の受験者層に合わせてある程度任意に作題できる試験である。難関大は難関大が求める学生のレベルに合わせて、医学部は医学部が求める学生のレベルに合わせて問題が作られている。とは言え、受験という出題範囲の決まっている「狭いプール」の中では突拍子もない発想を求める試験問題などではなく、いわゆる典型問題に一部手を加えて工夫を施した問題を出題することが多い。難関大や医学部などでは、こういった典型問題を分野横断的に・複合的に手を変え品を変え組み合わせ、「一見すると初見の問題だが、よくよく考察すると典型問題を2つ3つ組み合わせた問題に過ぎない」という出題の仕方が非常に多い。

 

 つまり、二次学力が高い学生は、典型問題を組み合わせて解く思考訓練を日常的に行っているわけであるから、共通テストのような「思考を要するが比較的真っ直ぐな典型問題」を前にしたとき、「一直線の解法で解ききれる」「型通りの問題だ」と感じながら問題を解き進められる。センター試験から共通テストに変わり、問題の「見かけ」は変わってもその問題の根底にある「求められている理解力・解答方針を立てる力」に大差はない。そして、このことを十分に理解できるほどの学力を身に付けた状態こそが、真の学力が養われた状態(二次学力が高い状態)なのである。真に二次学力を高めれば、満点を取れるかどうかは別問題として、「共通テストなら失敗しても9割は取れる」というレベルに達する。いわゆる偏差値が70、75以上のレベルの学生はこのレベルにあるため、ほぼ共通テスト対策は不要であるとすら言える。(マーク形式に慣れる、特有の問題形式に慣れる、時間に慣れる、誘導に乗る練習をする、などは最低限必要。)

 

 また、一般論として、難関大や医学部は一次よりも二次の方が点差がつきやすい。それは上述したように、二次では分野横断的に複合的な問題が出され、ゼロの状態から自身の力で解答方針を立てる必要があるからであり、それら問題を解くトレーニングを積んでいない受験生は必然的に淘汰される、というよりも淘汰するために大学側がそのような問題を課していると解釈するのが正しい。すなわち難関大や医学部は「Aを見たらBと答えよ。Cが出たらDだ。」というような安直な試験勉強をしている受験生を欲していないのだ。「Eを解くためには自分の知っているFGHIの手札の中からどれを使おうか。FGを組み合わせて、途中でHの解法を使い、結論はIのパターンに持ち込めば解けそうだ!」と思考できる学生を求めているのである。この思考力は決してマーク形式のみの学習、特に除外的解法(A~Dは違うから答えはE」という選択肢除外によって得られる答案方法)で養うことはできない。

 

 以上のように、難関大や医学部を目指す受験生は必ず二次学力をいかに引き上げるのかということに全身全霊をかけて取り組んでほしい。そうすることこそが合格への最も確実で最も早い勉強法である。十分な思考訓練を重ねること、そしてそれから逃げないことが最も重要なのである。

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Case7.自分の普通、全国の普通

Case7.自分の普通、全国の普通

 

 自分の「普通」は果たして全国の「普通」であるのか。受験とは絶対的な自分の立ち位置ではなく、相対的な立ち位置で勝敗が決まる。とりわけ医学部受験のような全国のハイレベルな人たちで争う「椅子取りゲーム」では、彼ら彼女らの中で自分がどこに位置しているのか、それが問題なのであって、「自分の中では頑張っている方だと思います。」というのは通用しない。

 

 自分の受験時代を振り返ると、結果的に周囲に数多くの自称「医学部狙い」が存在した。おそらく彼ら彼女らの「My偏差値」は70超、80超であったのかもしれないが、実際の全国偏差値は自身の認識と大きく乖離していた。「自分ではかなり勉強してると思うんだよね。〇〇の分野もできるようになったし、△△大学の医学部なら受かると思うんだ。」、この思考が一番恐ろしい落とし穴なのである。

 

 特に北海道にいると海を挟んでいるせいか、この「My偏差値」から脱却できない受験生が多いように思う。東京を中心とする首都圏では、いわゆる「受験マシーン」とも言える、とんでもない勉強マシーンが量産され、彼らの周りには彼ら自身のような「受験マシーン」がひしめいているから、リアルな感覚として難関大・医学部合格の難しさや勉強のハードさを肌で感じている。こういった「受験マシーン」達と同じ土俵で戦うわけだが、北海道は上記のような理由から「教育僻地」と化している。実際、私の周囲の友人・知人で東大医学部や慶應医学部、東京医科歯科大学などの超難関医学部の医師・医学生と話をしたとき、彼ら彼女らがどういう戦争を勝ち上がってきたのかを生で聞き、受験当時いかに私自身がぬるま湯に浸かっていたのか大いに恥じた記憶がある。

 

 さて、この記事を読んでいる人の大半はこれから医学部受験を目指す人やその親であるだろうが、今回の記事で私が真に伝えたいのは、「あなたの普通は全国では通用しません、だから一日も早くその事実に気が付いて下さい。今ならまだ間に合いますよ。」ということである。たいていの場合、残念ながら、あなたの普通(My偏差値)を客観的に分析すると、医学部受験では全国偏差値50にすら到達していない場合が多い。受験生やその親は、My偏差値なのか全国偏差値なのか、自分は今どちらの立場で勉強しているのだろうかと分からなくなることがある。そのような場合は実際にそういう経験をした医学部の先輩や医師、医学部受験指導の経験が豊富な受験指導員に聞くのが最も確実である。真っ暗闇の中で正しい方向を示してくれる「コンパス」となり、医学部受験全体をマネジメントしてくれるからである。周囲にそういう人がいないならば、ぜひ一度北大・医大進学塾に来て塾長の進路進学相談を受けてみてほしい。多くの受験生や親が何かにハッと気が付くきっかけになってほしいからである。

 

 自分の意志で「医学部に行くんだ!」と一度決めたなら、いかに一日も早くMy偏差値から脱却し、医学部受験の全国偏差値50に乗り、そこからさらに60超、70超を目指していくか、それこそが全国のライバルたちとしのぎを削る「椅子取りゲーム」で勝ち上がる最善かつ唯一の攻略法なのである。

Case6. 数学の重要性

Case6. 数学の重要性

 

 数学は受験という観点のみならず、日常生活においても最も重要な科目である。多くの読者は「???受験の観点なら分かるけど、むしろ日常生活とは最も疎遠な科目ではないのか」思うだろう。否。数学こそが最も人間の思考を支える基幹的な科目である。

 

 多くの人は「sin, cos何に使うの?」「コンビニに行っても微分積分使わない」などの誤った「数学」に関する理解であり、これら意見のほとんどは「数学」という本質的概念を理解していない。彼ら彼女らの指摘する「数学」とはたいていの場合「公式の使い方」や「計算」などの「作業」的な側面に焦点が当たっている。全くナンセンスである。「数学」とは本来「論理的な思考プロセスを獲得する」「論証の組み立て方を学ぶ」といった学問である。私は数学科卒の人間ではないが、数学科卒の友人が周りに何人もいて、彼らは決して計算がものすごく速い人ではない。物事を論理的に咀嚼し、プロセスに分解し、必要に応じて数字やコトバに置き換えていくプロである。そしてそれは普段何気ない会話からも「この人は論理的思考が鋭いな」と感じることができる。

 

 この論理的思考力は職種を問わず社会人になってからも大いに役立つと思う。具体的には、数学的思考力を有する人の話は実に「わかりやすく」、一方そうでない人の話は実に「わかりにくい」。もっと言うと、わかりやすい=数値を用いて定量的に表現できる、わかりにくい=抽象的な表現が中心で定性的である、と言える。友人とフランクに話している場面では「めっちゃ」「すげえ」などの曖昧な表現で全く問題ないが、仕事上で「めっちゃやばい」「すげえ売れた」などの相談・報告を聞いたとき「コノヒトダイジョウブデスカ??」と思ってしまう。その定性的表現は主観的であるし、相手が欲しい情報を何も有していない。主観的意見を述べるにしても客観的事実を基軸にして述べるべきだし、またそれを混同してはいけない。例えば、「めっちゃやばい→前日の採血データと比較して〇〇が××の値に低下しているので△△の可能性が示唆されます」であるべきだし、「すげえ売れた→前月比で〇〇の商品が1000から1300個に売り上げが伸びたので××円の利益は出そうです」の方が遥かにスマートである。これらは卑近な例でわかりやすいものを取り上げたが、程度はあれ同様の事例は枚挙に暇がない。

 

 また、数学の学習における他の重要な要素として「相手が言っていることが本当かどうか」を吟味する力を養うことも挙げられる。これも結局は論理の組み立ての応用であり、相手を騙そうと体裁を繕って話す相手の矛盾を指摘できる。併せて、相手から与えられる情報の妥当性を検討でき、いわゆる「二次情報」「三次情報」に踊らされなくなる。つまりネットで「偉い〇〇っていう先生××って言ってたダイエット法がすごいらしい」などに踊らされなくなる。理詰めで考えれば簡単にわかるのに易々と騙される人が多くいる。逆に、相手にモノを説明し納得させる場合は、正しい論理の組み立てが行えると相手の納得は得やすい。

 

 少なくとも医師はこの論理的思考、論証の組み立てを職業上必要とする。ある疾患に対する診断から治療までの一連のプロセスを念頭に置き、患者・家族への説明・説得など、少なくとも最初は論理的に展開を試みる。(ここで「最初は」と述べたのは、実際には相手は感情をもつ人であり、論理のみでは納得してもらえないことや、相手のレベルに合わせて定量的表現よりも定性的表現を使うこと、さらに医師個人の経験的診断・治療を行うことも現場ではあるからである。医療従事者間での情報共有は間違いがないように具体的数値を用いた定量的表現や具体性を伴った表現が好まし)

 

 医学部合格を目指し、そしてこれから医師になる受験生には、今一度「数学はその形を変えて働いてからも一生付き合うことになる」という気持ちで数学に取り組んでほしいと思う。数学で得た思考力は一生ものの宝である。

Case5.なぜ「英文法」なのか

Case5.なぜ「英文法」なのか

 

 英語の二本柱は「語彙」と「英文法」である。英語が得意な人でこの二つができない人は絶対にいない。断言できる。今回は英語における英文法の重要性について以下に記載する。特に「英語が苦手で点数が伸び悩んでいる」「調子良いと英語取れるけど安定感がイマイチ」という受験生は必読してほしい。

 

 どんなに長くて読みにくい長文でも「語彙」と「英文法」があれば必ず正しい解釈に結び付く。高度に文脈上の解釈を要するような表現が一部あることは確かだが、そういった一部の例外を除けば、文章の9割以上は「語彙」と「英文法」で解決でき文意が取れてしまう。なぜならば、英文は「英文法」のルールに則り、「英単語・熟語」を使って文章が書かれているからである。厳密にいうと、ネイティブが作者の場合は、上記を意識しないで文章を書いているわけだが、これは無意識のうちに我々が学習する「英文法」のルールに則る形で文章を書いていることになる。先代の賢人たちが知恵を集め、いかにガイコクゴである英語を非ネイティブの我々がネイティブが解釈する文章の内容に限りなく近い形で解釈するためにはどのようなルールを適用したら良いのか、を何十年、何百年にわたり研究に研究を重ね、ある一つの具現化した形として英文法が完成したのである。その賢人の知恵を借りたおかげで、我々はそのルールさえ知ってしまえば、大学入試レベルで出題される文章のほぼすべてを少なくとも合格点にまでは持ってくることができる。(実際は、高校で学ぶ英文法を深く学習すれば、大学以上の高尚な文章でもそっくりそのまま応用できる優れものである。)

 

 大学受験における英語では、読者(=受験生)である我々は、その英文構造を「語彙」と「英文法」で解釈し、「〇〇は何か?」に答えるだけで点数がもらえる試験・構造である。では、なぜ簡単な構造なのに英語が苦手な学生がいるのか。それは純粋に数学的な勉強法では解決できない「パターンの多さ」「量の多さ」と関係がある。英文法と言っても一つの公式を覚えたらすべてに応用が利くような優れものではなく、これが受験生を苦しめる。しかも、せっかく「分詞構文」の基本的ルールを覚えても、英語は言語であり例外が多数ある。そうなると受験生は「これ、どこまで覚えたらいいの?」となる。つまり、頭がパンクする。極論、文法書を10冊買って全部覚えれば良いですとなるわけだが、特に科目数の多い医学部受験生は英語だけ勉強すれば良いわけではなく、当然数学も理科も勉強しないといけない。「英文法」は自学自習のみで獲得するのはかなり困難で、一度すべてを理解した人に、その全体を俯瞰してもらい指導してもらうのが一番良い。順序としては、「語彙+英文法」→「長文読解」に入っていかないと長文読解にかけた時間は、なんとなく英文を読解している気になっている「雰囲気読解」となり、コストパフォーマンスが非常に悪い。この「雰囲気読解」が実はかなり曲者で、あるときは100点、あるときは50点という形で受験生を襲う。たまたま自分が読んだことのある文章、興味がある領域の文章で100点を取ってしまうと、「自分は英語ができる」と錯覚し、次に50点だったときに「たまたま点数取れなかったんだ」と根拠なき慰めをする。結果的に本番でも50点なわけで、「たまたま本番でも読めなかったんだ」と誤解して、負の無限ループに陥る。英語が得意な人=語彙と英文法がしっかりした人は、どんな問題でもコンスタントに90点を取り続ける。それが一般に大学受験レベルの英語ができると言って良いレベルと考える。

 現在の学校英語教育は「コミュニケーション重視」「会話重視」を盛んに掲げているが、残念ながらそのやり方では真に英語ができるという方向に向いていない。海外旅行でトイレはどこにあるのか」「これいくらなの?」には事欠かないが、少なくとも医学部受験レベルの話ではない。実際、「コミュニケーション重視」「会話重視」を謳っている割には、本番の二次試験はゴリゴリの英文法要素満載の長文読解であり、決してネイティブと「トイレはどこにあるのか?」という面接を受験英語の試験内容に課していない。このギャップに少しでも早く気が付き、「英文法」と「語彙」の重要性に気が付いた人が英語攻略に一歩近づく。

 

 ただ、10年前と比較して明らかに変化しているのは、全国で英語長文の文字量が増え、一方で内容は遥かに読みやすくなっていることである。つまり平たく言えば、「簡単な文章で分量が長くなった」ということである。いわゆる難関大でも、単科医学部でもこの傾向は表れている。おそらく感覚的には、10年前は、40点、50点、60点、70点の人がいたとして、今だと60点、60点、60点、70点というように、あまり英語ができない人とそこそこできる人がある点数に集中していることが考えられる。要するに点差がつきにくい」状態の試験になりつつある。これは良くない試験の傾向だと思う。40点の人は40点であるべきだし、60点の人は60点であるべきである。そうでなければ必死に英語を勉強した人とそうでない人の差(=努力)が点数に表れにくくなる。

 

 上記について少し見方を変えると、ちょっとくらい苦手でもみんなと一緒に60点が狙える可能性はある。しかしこの怖さは、ちょっと苦手ではなく、もっと苦手であった場合、平均点(中央値)60点であるのに自分は30点となり得ることである。その集団(志望校)における「ちょっと苦手」のレベルは毎年変化し、実際は「もっと苦手」の集団に属してしまった場合かなり厳しい戦いとなる。逆に英語で差をつけたいなら、ちょっと得意ではなく、もっと得意になる必要がある。ちょっと得意では70点止まりであり、90点を取るためにはその集団において他よりも有意に抜きん出る必要がある。

 

 英語は医学部受験では「一定の点数を取って当たり前」の科目になりつつある。「とても得意」になるのはたとえ難しくても、最低限足を引っ張る科目にだけはしてはいけない。英語ができないというだけで大きくビハインドからスタートになる時代なのである。

Case4.才能がないのは普通である

Case4.才能がないのは普通である

 

 「才能がないから自分は何をやっても無理だ」「頭の良さなんて生まれたときから決まってるんだから医学部なんて入れるわけがない」と嘆く人がいる。かくいう人たちは決定的に足りていない「才能」がある。「才能なんてないのが普通」であり、その前提でどう戦うのかを考えなければならないという思考が欠けているのである。

 

 医学部に入学した人あるあるで、「どうやって勉強したの?すごい勉強法とかあるんでしょ?〇〇ちゃんは昔から天才だったもんね。才能ある人はいいよね。」など周囲から様々な質問や評価をもらう。果たして天才で才能があったから勉強ができて医学部に受かるのか。結論、天才で才能があっても「医学部受験はそれだけでは受からない」ということである。むしろ医学部合格のほとんどは凡才であり、凡才であるが故に人一倍努力したのである。たしかに天才で才能がある一部の人しか行けない医学部というのは存在すると思う。しかし、そんな医学部ばかりなわけがない。せいぜい東大理IIIと京大医学部、その他1~2個の特殊な医学部くらいだろう。

 

 医学部に合格する人は決して恵まれた才能があったから受かったのではなく、毎日コツコツとただひたすらに、雨が降ろうが槍が降ろうが、そんなのお構いなしに黙々と努力を続けたという結果の積み重ねで合格したのである。才能がないと分かったからこそ、才能があってさらに勉強する本物の「天才」達と勝負するには、ただひたむきに目の前の勉強に向かって取り組むことを選ばざるを得なかった、そしてそういう人が医学部といえど大多数であり、そういう人が結果的に第一志望に合格して医師になるのである。つまり才能がないというのは普通であり、それを知ったからこそ愚直に毎日勉強を行った結果として医学部に合格するのである。かく言う私も自分に才能があるとは一度も思ったことはなく、毎日ひたすら勉強した結果として医学部に合格したと思っている。

 

 ただ、必死に勉強して、毎日死ぬ気で勉強していると何となく自分の「才能の可能性」に気が付くことがある。自分の場合は「英語」であった。しかしそれは、他の受験生よりも何倍も何十倍も努力した自負があるし、実際そうだったと思う。それくらい勉強してようやく才能の有無の可能性に辿り着くと思う。つまり、才能とは努力の先にあるものであり、最初から持ってるものではないということである。この言わば「才能に気付くための果てしない助走」を積んでからでないと、才能の有無について議論することは無理だと思うし、たいていの医学部ならこの議論の前段階の学力で合格点に到達する。また、逆も然りで「才能がない可能性」についても、他の受験生の何倍も何十倍も努力した末に気付かされることになる。しかしこれも上記と同様に、この議論の前段階でたいていの医学部入試は合格点まで取れてしまう。おそらく体感的にはこのレベルの議論の対象となるのは偏差値75~80レベル以上だと思う。そう考えると、やはりほぼすべての医学部は合格圏内である。

 

 自身の経験を通して受験生に伝えたいのは、「才能がないのは普通であり、だからこそ毎日コツコツやった人が勝つんです。」という至極当たり前の内容で、これができるかできないか、受験とは結局ただその一点だと思う。